平和なうちに反戦歌を歌っておこう。
昭和50年代生まれの私。
「戦争を知らない子どもたち」の、子どもたちという年代。
しかし、きたやまおさむさんが言っていたように、
湾岸戦争の勃発で、私たちはもはやそうではなくなり
戦争を知る世代となった。
でも、それは、
「お茶の間で戦争の風景を見る」という
異常な戦争体験だった。
戦争体験、と意識していない人も多いだろう。
世の中、どんどん便利になっている。
直接手を下さなくても、獣の肉が食べられる。
でも、その背景には、現場で昔と変わらぬ
血なまぐさい屠殺が行われている。
そんなこと、ほんのちょっと想像するだけで分かるだろう。
相手は人と同じ、血も感情もある生き物なのだから。※
それと同じだ。
直接血刀を振るわなくても、遠くからボタン一つで人も殺せる。
いや、知らんぷりを決め込むだけで、虐殺を応援することだってできる。
その背景、現場……想像できない訳はないだろう。
だって、爆弾だよ。爆発するんだよ。
きれいな死体など残ると考えられますか。
妄想でもいい。いやむしろ、深い深い妄想。
自分がそこにいる、そこにいた、そこにいく、
そう考え、実体験を妄想してみること。
そうしたら、目を逸らされていたこと、塞がれていたこと、
自ら目を覆っていたこと、
たくさんのことが見えてくる、きっと。
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……などと、いろいろ書きましたが。
ここに、ウソは書いていないけれど、
自分の信じる道を曲げずに散っていった
先人たちのようには、
立派にふるまえない可能性は大いにあります。
なので、弱気な私としては
規制されない平和なうちに、既成事実として
反戦歌を歌っておこう。
と、思ったのでした。
(いちお、アンチテーゼ)
※植物もいきものです。これはまた別の機会に。
20110517追記。
福島の災害は、ある意味で戦争の中。
あの時代の軍部と国民は、今現在のシステムと個人。
そんな気がします。
一番弱い立場のひとや、いきものが、
一番真っ先に傷つき、倒れ、失われていく。
そんなことがあっていいのか。見過ごされていいのか。
大人たち、えらい人たち、そして
あらゆる力のあるひとたち、
「ノブレス オブリュージュ」をどうか、胸にもう一度。
すきなうた。
知って欲しい人たち。
詩のようなもの。
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