スナーク狩り
宮部みゆき光文社文庫

「そのときが、慶子の時だった。すべての準備、すべての覚悟は、その一瞬のためにあった。ゆっくりと歩き出す。場所はわかっていた。このフロアのいちばん東の奥、芙蓉の間だ。(中略)さっき駐車場で感じた火薬の匂い。あれは、トランクのなかにあったのではない。慶子の心のなかにあったのだ。」(p16)

「そして急に、今まででいちばん惨めな気分になった。こんなところで、あたしはいったい何をしているんだろう。子共みたいにトイレに隠れ、便座の上に座り込んで。いい歳をして、いったい何をやっているんだろう。」(p30)

「そう、殺し屋は神に祈ったりしない。怖気づいたりもしない。その時が来るのを待っているとき、急に惨めな気持ちになったりもしない。たとえ、大統領を撃つためにトイレに隠れなければならないのだとしても。だが、慶子は震えていたし、これ以上ないほど惨めだった。おお、どうぞ神様、あたしを怖気づかせないでください。手元を狂わせないでください。すべてがうまくいくように計らってください。もう二度とこれほど強くお願いをすることはありません。これが最初で最後のお願い。だから、どうぞ。」(p32)

「武者震いのようなものを感じ、織口はふと口元をゆるめた。大げさに考えるのは、よくない。訂正しよう。これはごく個人的なものだ。個人的なツケの精算。」(p70)

「『あなたには、お金しかないんだもの。そういう人間しか寄ってこないのよ』その言葉が、今も耳について離れない。」(p82)

「慶子は勤めを辞め、何日も、何時間もぼうっと壁をながめて暮らした。どう身を処すべきか。どうすれば立ち直れるか、考えながら。それは、獣が洞窟の奥に隠れ、傷口を舐めながら回復を待つことに似ていた。そんなとき、あの手紙が来たのだ。(中略)それなら、受けて立とう。自分なりのやり方で、決着をつけるのだ。彼らは気付いていない。彼らが慶子にした仕打ちのうち、何がいちばん酷かったのかを。国分に、和恵に裏切られたことなど、もうどうでもよくなっていた。慶子を打ちのめしたのは、自分が、あんな連中しか引き寄せることのできない人間であったと思わされたことだ。自分には、なんの価値もないと思わされたことだ。これから巡り会うことになる人間を、また愛するかもしれない人間を、慶子はもう、虚心に見ることができなくなってしまった。また、国分のような男であるかもしれない――と思う。なぜなら慶子は、そんな人間にしか選んでもらえない女なのだから。だから、この計画を練ったのだ。」(p82〜83)

「ためらいも怯えも消えた。アルコールが気化するように、一瞬のうちに慶子の肌を通って雲散霧消し、冷たい決断だけを残していった。銃を抱え、慶子は個室を出た。洗面所にも、パウダールームにも誰もいない。もう何も聞こえない。小走りに歩きながら、さながら宙を飛んでいるかのように、自分の髪がうしろになびいているような気がした。まるで、勝利の女神ニケのように。翼を広げて戦場へ舞いおりる。あの女神像には首がなかった。それもぴったりじゃないか、今の私に。」(p84)

「心に焼き付けて、忘れないでおこう――そう思った。これからやろうとしていることが終わったとき、その正邪を判定してくれるのは、ああいう人間たちなのだ。ごく当たり前の常識と感性と、守るべき仕事や家庭を持っている、大勢の善良な生活者たち。そう、そのことを考えよう。思いだしてはいけない。頭を撃ちぬかれたあの二つの遺体のことは。冷たい手を取り上げたとき、必死の祈りを捧げていたかのように、その指がねじ曲がっていたことも。」(p116)

「必要なものは全て手に入れた。あとは、この夜の下を走り抜けてゆくあいだに、勇気が挫けないようにと願うだけだ」(p119)
「傍らの風呂敷包みに目をやる。こうしてあれば、これが散弾銃であることを、誰にも悟られない。弾はウエストポーチに入れてある。同じ車のなかに乗り合わせている神谷でさえ、織口の重そうな手荷物に、なんの疑いも抱いていないようだ。当然じゃないか。俺は、娘の初産に駆け付ける父親なのだ――
どうか、このままうまくいってくれと、織口は祈った。もう邪魔しないでくれ。静かに目的を果たさせてくれ。」(p164)

「織口がいったい何を考え、どんな目的で銃を奪っていったのか、慶子には推測することさえできない。あの優しそうな、人生に満足しきったような初老の男の頭の中に、どんな爆弾が眠っていたのだろう。」(p166)

「織口は、今夜あんなことをしでかすまで、どういう思いで毎日を送っていたのだろうか。見苦しい死に方を選び、国分を道連れにしてやろうと決めた慶子が、表向きには平穏に、修治やフィッシャーマンズ・クラブの店員たちと交流を続けていたのと同じように、彼もまた、薄い皮膚を一枚めくってみれば、まったく別の顔が現れてくるような、仮面の暮らしを送っていたのだろうか。」(p.168)

「薄暗がりのなかに、小さな赤いランプが灯っているのが見える。出かける前にセットしていったっきりの留守番電話だ。それに気が付いたとき、慶子は初めて泣きだした。ここを出てゆくときには、国分の面前で死んでやるつもりだったのだ。それなのに、あたしは留守番電話をセットしていった――
本心では、死にたくなんかなかったのだ。そのことが、今やっとわかった。(織口さん……)」(p.168〜169)

「だが、回を重ねるごとに、織口のなかで、傍聴に通うということが、大きな負担となってもいたのだった。
『毎回、椅子に座って被告人席の大井を見ていると、なんでこんなことをしてるんだろうと思うって、あの人は言ってた。どうしてこんな野郎の言い分を聞いてやらなきゃならないんだろう、なぜこんな言い訳の場を与えてやっているんだ。あんな残虐なやり方で、二人も殺してるヤツなのに、って』」(p.229)

「もちろん、そんな考え方が危険であることを、織口はよく承知していた。だからこそ、傍聴に行くたびに、彼は押しつぶされたようになってしまっていたのだ。」(p.230)

「『あの人は、今までずっと、必死で自分をコントロールしようとしてた。感情を抑えて、最後まで裁判の行方を見届けるんだって。“目には目を”という考え方をしていたら、我々は原始時代に戻ってしまうだろう。そう言ってたよ』」(p.231)

「そうなのだ。筋が通らない。今の織口は、いつも必死で否定していた考え方を、実力行使の道を選んだことになるのだから。 彼を動かしてしまったのは、何だ? らくだの背を折った最後の一本の藁は、どこから運ばれて来たのだ? いったい何が起こって、織口を変えてしまったのだ?」(p.232)

「だが、ほんの一ヶ月前までは、前回の公判で弁護側の証人の証言を聞くまでは、織口もまだ信じていた。信じようとしていたのだ。善彦も、麻須美も、きっかけさえ与えてやれば、環境さえ整えてやれば、きっと更正する――と。だからこそ、この裁判には意味があるのだと。処罰と、彼らに自分のしたことの意味を悟らせるために。」(p.249)

「我々はみな、そろいもそろってお人好しばかりなのだ。織口は思う。我々は何度だまされても懲りようとしない。そして、何度も何度も殺される。」(p.249)

「あなたは、すべてを知ったあとも、私をこの車に同乗させたことを、後悔しないでいてくれるだろうか?」(p.254)
「何かしなきゃいけない。行動に移さなければいけない。そうしなければ、いつまでたっても同じ場所で堂々巡りを繰り返すだけだ。」(p.293)

「だが、これで、慶子のもとから銃を盗み出したとき感じた疑問の答えが見つかったのかもしれない――と、織口は思った。昨夜の彼女には、彼女なりの、何か暗い予定があったのだ。だから、あんなにも美しく盛装した上で、銃を一丁トランクに入れ、弾を一発、華奢なバッグのなかにしのばせて持ち歩いていたのだ ――」(p.305)

「織口はためらった。嘘を言おうと思った。だが、とっさにそれらしい名称を思いつくことができなかった。それと同時に、何かひとつくらい、この神谷という男に本当のことを告げておきたいという気持ちがこみあげてきて、思わず答えていた(p.312)」
「詰め寄ると、思いがけず織口の頭髪からトニックの匂いがした。いつも職場でつけているのと同じ匂いだ。それが急に修治を混乱させた。なんだって俺は織口さんに向かって怒鳴ったりしてるんだよ?」(p.332)

「その目を見上げ、その瞳の奥をのぞきこんで、修治は薄ら寒い真実を見つけた。目は心の窓だというけれど、それなら、今のこの人の目は、囚人が鉄格子をヤスリで引き切って脱獄したあとの窓だ。内側から押し曲げられた檻が、外の世界に向かってぽっかり開いているだけで、なかはうつろ、完全にからっぽだ。 この目の奥に囚われていた囚人は、修治の知っていた織口が制御しようとしていた囚人は、もうとっくに脱獄してしまった。自由の身になって、復讐のために、まっしぐらに目的地へ向かっている。」(p.337)

「織口さんはこれを見せようとしたんだ。繰り返し、範子は心の中で絶叫した。声を出していないのに、喉が破れそうだった。これを見せるために、あたしと佐倉さんを脅してここまで連れてきたんだ。織口さんは正しかった。あたしたちは間違ってた。わかったわ、わかったわ。だからもうやめて。」(p.353〜 354)

「頭をめぐらすと、織口がこちらを振り向いていた。彼の顔に、出し抜けに殴られでもしたかのような驚愕の表情が浮かんでいた。織口の銃は、車の方を向こうとしていた。だが今、その手が緩み、銃口が下へさがり、車の後部のドアのそばの若者からも離れていく。緩慢に弧を描いて、ゆっくりとずれてゆく。」(p.356)

「(私は彼らを試したい) そんなことは裁判所がすることだ。私刑はいけない。あなたはただ、あいつらを殺したいんだ。だからその言い訳を探してるだけじゃないか――そう言ったのは誰だっけ?」(p.363)

「それを思ったとき、越中境のサービスエリアでの対決のとき、彼の頭から匂ったトニックの匂いが、ふとよみがえった。あれはそう、いかにも織口らしい匂いだった。 父親の匂いだった。」(p.364)

「でも、織口さんのような人が、怪物にならなければならなかったことが、わたしは悔しくてたまらない。間違っているのは、織口さんや、修治さんや、わたしたちじゃなくて、もっと別のところのような気がするのです。」(p.382)

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