「あたまのなかにある公園」
糸井重里/ほぼ日ブックス


つくるときの「初心」も大事だけれど、
知ってもらいたいという「初心」も大事にしよう。
(p.11)


ずっと前に「魚を飼うことは水を飼うことだ」
と、書いたことがあります。
水が魚を飼うのによい状態になっていれば、
魚は自然にうまいこと生きていけるのです。
(p.14)


きれいでなくても、まちがっていても、
「私」を通過して出てきた考えは、生きている。
どれほど正しそうに見えても、
「私」と無関係に語られる「正解」は、
ただの「データ」である。
(p.18)


知らずにうそをついている場合があるので、
気を付けよう。
(形式や常識、先例は、うその宝庫である)
(p.52)


機嫌よくいつもいたいなあ、と思うのです。
できることならば、どういういやなことがあっても、
機嫌よくいたいものです。
機嫌がいいときというのは、ものがよく見えます。
機嫌のいいときというのは、音がよく聞こえます。

じぶんが機嫌よくいたいのも、そうですが、
他の人が機嫌いいのも、とてもいいなあと思います。
機嫌のいい人のところに、ぼくは引き寄せられます。

機嫌のいい人のそばにいると、
なにかいいことが起こりそうな気がするのです。
じぶんでも、よくわかっちゃいないことが多いですが、
機嫌というものが、ぼくにとってはとても大事です。
なんなんでしょうねえ、それ。

「悲しみのわかる、機嫌のいい人」というのは、
ぼくの理想的な人間像かもしれません。
(p.96-97)


じぶんの「よくないところ」というのは、
じぶんの「いいところ」が存在するための、
理由だったりするんです。
どこかに、影や、ゆがみや、不足や、汚れがあるために、
それをごまかそうとしたり、忘れようとしたりして、
別のなにかが発達することがあります。
それは、悲しいことでもあるのですが、
あんがい、そこに、
人は喜んでくれることがあるんですよね。
(p.104)


頭脳でも、美貌でも、家柄でも、武器と言われるものは
およそみんな、力を与え、自由を奪いますよね。
(p.168)


戦争というのは、やっぱり、自然現象じゃない。
人間が考えて、人間が実行することの集積です。
戦争が「起こった」とか、「終わった」とか言うけれど、
やっぱり、これは人間を主語にして、
「起こした」「敗れた」と言うべきなんだなと、
しみじみ、思います。
(p.217)


受け手が拒否したら、
送り手がなにをしても、市場は成立しない。
(p.230)


おいしいものの話は、罪がなくていいよねぇ。
敵も味方も、西も東も、右も左も、
おいしいものを食べてるときは、みんないい人だもんな。
(p.244)


「さみしさ」というものは、人間の感情のなかでも、
とりわけ根源的なもののような気がします。
「うれしさ」とかって、「さみしさ」の子どもですよね。
(p.280)


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