「深い河」
遠藤周作/
新潮社

「『僕が神を捨てようとしても、神は僕を捨てないのです。』」(p.67)

「彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい/人は彼を蔑み、見捨てた/忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる/まことに彼は我々の病を負い/我々の悲しみを担った。」(p.71)

「おいで、私はお前と同じように棄てられた。だから、私だけは決してお前を棄てない。」(p.101)

「禊は罪のよごれ、身のよごれを浄化する為の行為ですが、ガンジス河の沐浴はその浄化と同時に輪廻転生からの解脱を願う行為でもあります。」(p.174)

「よく見れば なずな花咲く 垣根かな、は、ここ(ヨーロッパ)の人には遂に理解できないでしょう。もちろん時にはなずなの花を咲かせる命と人間の命とを同一視するそぶりをしますが、決してその二つを同じと思っていないのです。」(p.191)

「『神は人間の善き行為だけではなく、我々の罪さえ救いの為に活かされます。』」(p.191)

「少年の時から、母を通してぼくが唯一つ信じることができたのは母のぬくもりでした。母は(中略)玉ねぎとはこのぬくもりのもっと強い塊り−つまり、愛そのものだと教えてくれました。(中略)母のぬくもりの源にあったのは玉ねぎの一片だったと気が付きました。そして結局、僕が求めたものも、玉ねぎの愛だけで(中略)教義ではありません。」(p.192)

「神は幾つもの顔を持たれ、それぞれの宗教にも隠れておられる、と考える方が本当の対話だと思うのです。」(p.198)

「彼らの中に僕は玉ねぎを見つけます。それなのに何故彼らが他の宗教の徒を軽蔑したり、心ひそかに優越感を感じねばならぬのでしょう。僕は玉ねぎの存在をユダヤ教の人にもイスラム教の人にも感じるのです。玉ねぎはどこにもいるのです。」(p.200)

「ミイラのようだった老女の死体。もしその布を剥がせば、そこからはあの崩れた女神チャームンダーが現れるだろう。」(p.299)

「醜く老い果て、苦しみに喘ぎ、それに耐えています。それなのに彼女は、喘ぎながら萎びた乳房で乳を人間に与えている。ヨーロッパの聖母マリアとは違った印象の母なる女神チャームンダーなのです。」(p.226)

「玉ねぎがこの町に寄られたら、彼こそ行き倒れを背中に背負って火葬場に行かれたと思うんです。ちょうど生きている時、彼が十字架を背にのせて運んだように。」(p.300)

「玉ねぎは死にました。でも、弟子達の中に転生したのです。」(p.302)

「“対立し憎みあい人を殺させる宗教は信じる気にはなれない”」(p.307-308)

「『私はヒンズー教徒として本能的にすべての宗教が多かれ少なかれ真実だと思う。すべての宗教は同じ神から発している。しかしどの宗教も不完全である。なぜならそれらは不完全な人間によって我々に伝えられてきたからだ。』」(p.310)

「さまざまな宗教があるが、それらは皆同一の地点に集い通ずるさまざまな道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ違った道をたどろうとかまわないではないか。」(p.310)

「私はイエスにつかまったのです。」(p.310)

「あなたは背に人の哀しみを背負い、死の丘まで登った。その真似を今やっています。」(p.314)

「人は愛よりも憎しみによって結ばれる。人間の連帯は愛ではなく共通の敵を作ることで可能になる。」(p.316)

「どんな悪行にも救いの種がひそんでいる。」(p.324)

「玉ねぎなどと限定しない何か大きな永遠のもの」(p.342)


+++ もどる +++